音珈琲の日々、ひろいごと

アロマンティックでアセクシャルなアラサーヴァイオリン弾きのブログ

「恋をすると音楽が変わる」の果て

「恋をすると、音楽(演奏)がガラッと、素敵に変わるのよ。音珈琲ちゃんも大人になったら素敵な恋をしてね」

確か7、8歳位だっただろうか。当時習っていたヴァイオリンの先生に言われた言葉。

恋愛を経験すると、音楽表現が変わる。そっか、そういうものなのか。

この頃の私は、ヴァイオリンという楽器を通じてクラシック音楽の魅力に取りつかれつつあった。

恋愛をして自分の演奏が向上するなら、私も早くその「恋」とやらを経験してみたい。

あの時は漠然と、そんなことを思った。

しかし、現実はまるで違った。

経験してみたい、という思いとは裏腹に、中学に上がってクラスメイトが恋愛話に花を咲かせるようになっても、私には「恋」というものの予感、いや気配すら訪れなかった。

そして、恋愛の予兆ゼロな状態と反比例するかのように私の音楽熱は更に高まり、音楽高校進学を決意。これまで以上に音楽一色の日々を過ごすようになった。

練習に明け暮れつつも、私にとって唯一息抜きになったのが『のだめカンタービレ』という漫画だった(2000年代初頭の作品故、当時は面白いと感じていたシーンも、今では笑えないな、と思うシーンも多々ある)。

言わずと知れたヒット作なので説明するまでもないかもしれない。音大を舞台とした作品で、ドラマ化、アニメ化もされている。

作中に、こんなシーンがある。

オーボエ奏者、黒木君は主人公のだめに一目惚れ、恋に落ちる。

すると、これまでいぶし銀のようなモーツァルトを奏でていた黒木君が、ピンク色のモーツァルトを奏で始めるのだ。

そんなのフィクションじゃないか、と言われればそれまでなのだが、表現者が恋愛を経ることで表現が変わる、というフィクションは、何も『のだめカンタービレ』だけではない。『のだめ』以外のフィクションでもわりと見られる描写である(当時の私は、そういった作品は『のだめ』以外知らなかったけれど)。

恋愛経験者が語る恋愛、性愛体験。

好きになると四六時中その人のことを考えてしまう(らしい)。胸が高鳴る(らしい)。その人に触れたくなる(らしい)。独占したくなる(らしい)。嫉妬する(らしい)。
恋は「する」ものではなく、「落ちる」もの(らしい)。
好きな人とのセックスは、気持ちが良いもの(らしい)。

私が語ろうとすると全て「らしい」という単語が語尾にくっついてしまう。

こういった感情が私の音楽に何をもたらしてくれるのか、という純粋な興味はありつつも、私の食指は全くと言って良い程動かなかった。

他の人達が恋愛に注ぐエネルギーも音楽の方に全振りしているから、恋愛感情が湧かないのか?

いや待てよ。クラシックの大作曲家、ベートーヴェンブラームスは、音楽に溢れんばかりの情熱を注いでいるにもかかわらず、ドラマ以上にドラマチックな大恋愛をしているではないか。

何故私にはそういう感情が湧いてこないんだろう?

深まる謎を抱えたまま、音高音大に進学することとなった。

音高音大の男女比は1:9である。なかなかの片寄り具合。ヘテロロマンティック(異性愛者)の女性からしたら、一見恋愛とは縁がなさそうな環境に思える。

だが、恋愛したいと言う同級生の女子達は、学校の外にその相手を求め、行動していた。

私はというと、自らそのような行動を起こす気にはならなかった。

表現と恋愛経験を結びつけることに疑問を感じるようになったのは、大学に入って以降。

作曲科の先生の講義を受けていた時のことだ。

先生曰く「名曲解説と称した本の内容を鵜呑みにするな」とのこと。

「あの手の本には『ショパンは遠くにいるジョルジュ・サンドに会いたいと願いながら、この曲を書きました』とか書いてあるでしょう。

よく考えてみて。

そんな訳ないでしょう?

本当に恋人に会いたいと思っていたとしたら、向かうのは五線紙ではなく手紙だよね。貴方に会いたいです、って手紙を書くのが自然じゃない?」

確かに。。

当時の私は、芸術家に恋愛はつきもの、みたいなイメージを勝手に抱いていたが、果たしてそれは本当なのか?と、徐々に懐疑的になっていた。

そして「恋愛は私の表現に何かをもたらしてくれるかも」という幻想に大きなヒビが入る瞬間が訪れた。

私のヴァイオリンの先生は、レッスン中に(毎回ではなかったけれど)表現のイメージを恋愛に例えることがあった。

私はそれを捉えるのに非常に苦労した。何せ共感したくとも実体験がない。

そんな時、たまたま手にした小説に少々官能的なシーンが登場した。

(私はフィクションの恋愛描写、性愛描写は程度の問題はあれど、そこまでの抵抗感はない)

読みながら、登場人物に感情移入したり、自己投影することは、当然ない。

ただ。

「今練習している曲。この登場人物になりきって弾くことが出来たら、少しは曲に近づけるかも?」

そんな考えが浮かんできた。

私はなんとかこの登場人物の気持ちを想像しようと努めた。これまで自分の中に沸き上がってきた感情を思い起こし、この登場人物と近しい感情を抱いた瞬間はなかっただろうか、と思いを巡らせた。

そして何より譜面をよく読み、ハーモニーを咀嚼した。これまで以上に。

これらの努力が実を結んだかどうかは、今となってはよく分からないが、ハーモニーを感じつつ登場人物になりきった気持ちで演奏した私に対して、先生は嫌味もなく嬉しそうに「あら貴方、いつも音が薄味なのに、いつの間にこんな濃厚な音が出せるようになったの?」と仰った。

滅多に褒めることがない先生に褒められたのだ。

本来は「やった!」と素直に喜ぶところなのだろうが、なんだか拍子抜けしてしまった。

経験は無くても、想像することは出来る。

確かに実体験を伴った表現の方が、説得力は増すのかもしれない。

けれども音楽や文学、絵画といった芸術に触れて、そこから感じ取ることは出来る。芸術はどんな人に対しても開かれているものだから。

そもそも人生は(その長さに個人差はあれど)経験できることよりも経験出来ないことの方が圧倒的に多い。
仮に経験出来ない=表現出来ない、のだとしたら、アーティストのほとんどが、恐らく何も表現出来ていないのではなかろうか。

他人の人生は生きられない。自分の人生しか生きられない。その点はマジョリティだろうがマイノリティだろうが、全ての人類の共通事項。

表現者として恋愛経験がないことを思い悩む必要はない。そう思えるようになった。

私がアロマンティックアセクシャルであることを理由に、恋愛や性愛を描いた作品を表現するなんて出来っこないよ、と言ってくる人が仮にいたとしたら、逆にこんな質問をしたい。

戦争経験がない演奏家第二次世界大戦下に作曲された作品を演奏することは、無意味でしょうか?

譜面が音楽家に語りかけてくるメッセージ。その絶大さを、貴方は知らないでしょう。

私達は譜面だけではなく、歴史的な資料や作曲家の言葉を辿ることだって出来る。

そして今のご時世。演奏家の経験云々を語る以前に、戦争関連の作品を演奏する意義を否定出来るでしょうか。

私は一表現者である以前に、想像を絶やすことのない人間でありたい。