音珈琲の日々、ひろいごと

アロマンティックでアセクシャルなアラサーヴァイオリン弾きのブログ

旅の始まり

もうすぐ30歳に手が届きそうな私が、自分という人間を説明するラベリングとして「アロマンティックアセクシャル」が最適だと考えるようになったのはここ最近、数ヶ月前のことだ。

(アロマンティックとは他者に恋愛感情を抱かないセクシャリティアセクシャルとは他者に性的に惹かれない指向を指す。)

思い返すと、10代半ばから片鱗はあった。にもかかわらず、自認に至るまでに10年以上かかった。

それだけの歳月を要した背景として、十数年前は今のようなネット、SNS全盛時代ではなかった点は大きかっただろう。

しかしながら、スマホを手に入れ、あらゆる情報にアクセス出来るようになってからも、情報量の少なさ故か、私はなかなかこの二つの定義に辿り着けなかった。

このような環境的要因に加え、私自身の不健全な思考が自認を遅らせたのだ、とも思う。

私は物心つく頃から、ずっと自分を許せなかった。

法に触れるような何かをしでかした訳ではない。トラウマを抱えている訳でもないし、誰かに罵倒されたり、虐待された経験もない。

「許せない」という感情が一体どこから来るのか。それはよく分からなかったが、年々自分自身に向ける言葉、抱く感情が刺々しくなっていくことだけはひしひしと感じていた。

職業柄、人前に出る機会が多い故に、周囲からは堂々と振る舞うことを求められてきたし、私自身そうでありたい、そのようになりたいと願い続けてきた。

しかし「自分を許せない」という感情が私の邪魔をした。そんなもの、振り払えるのならさっさと振り払いたいところだったが、それは常に厄介な代物として付きまとってきた。

それくらい「自分を許す」という行為は私にとって至難の業だった。

自分を許そうと思ってもなかなか許すことが出来ない自分を責め、ますます自分を許せなくなる。まさに負のループである。

頭が痛くなるほど自分自分と向き合い続けて、私が一つ出した答えは「自分を許せない、そんな自分を許そう」というものだった。

そう思うことで、自身に向けられてきた刺が徐々に剥がれ落ちていく感覚があった。

このタイミングで出会ったのが「アロマンティック」と「アセクシャル」という二つの言葉。

当初、ネットでこれらの言葉の定義を読んだ際は、自分はこれに当てはまる、とは思えなかった(全く当てはまらない、とまでは思わなかったが)。何しろネットの情報は信憑性が疑わしいものが多いし、アロマンティックもアセクシャルも、サイトによって表現には微妙なバラつきがあったため、「私は本当にこれに該当するのだろうか」と懐疑的な気持ちになった。

ただ、当てはまるかどうかはさておき、アロマンティックやアセクシャルを自認する人達を否定する気にはならなかった。

これらの言葉に出会う前に、もし私の親しい友人が「自分は世の中の多数派の人々と同じような恋愛が出来ない」とか「性的に惹かれる、ということがよく分からない」ことで「自分はおかしいんじゃないか」と相談してきたとしたら。

私は「恋愛や性愛は人生の必須科目でも何でもない。それを理由に自分を責めることはないよ」「多数派の人と同じでなくても大丈夫」と伝えられたと思う。

何故なら、これまで私の人生を形作ってきた思い出や重要な出来事の中で、恋愛や性愛のプライオリティーがダントツに低かったから。

しかし悲しい哉、自分自身にはこんな言葉をかけることは出来なかった。

恋愛出来ないなんて、単にモテないのを拗らせているだけだろう。
自分の体型が女らしくないからって、言い訳にするな。

またしても「自分を許せない」という感情が私を支配していたのだ。

そんなタイミングで飛び込んできたのが、アロマンティックアセクシャルを題材にしたドラマをNHKが放送する、というニュースだった。

ドキリとした。しかも主演を務めるのは「素敵なお芝居をされる方だな」と常々思っていた役者さんときた。

これは…私が見ても大丈夫なんだろうか。正直迷ったが、結局ハラハラしながらも全話視聴した。

覚悟していた通り、見るのが辛いシーンが沢山あった。認知度の低いテーマを扱う作品の宿命ともいうべきか、このドラマも例に漏れず、当事者向けというよりは啓蒙の意味合いの方が強かったように思う。

それでも、ドラマを見始めた私の中に生まれたのは、ある変化だった。

私は本当にこれまで、自分と正面から向き合ってきたのだろうか?「自分を許せない」などと言って、本当は怖いから逃げきただけではないか?

いてもたってもいられず、アセクシャルについて書かれた書籍を手に取り、読み始めた。

自分を責め、許せないと思い続けてきた、ありとあらゆること。

それらは、一見恋愛や性愛と関係なさそうな事柄であっても「恋愛感情を抱かない」「性的に惹かれない」ことで募らせてきたコンプレックスに深く起因していたのだ、と本を読んではっきり自覚した。

こうして、自分という人間を説明するラベリングとして、アロマンティックアセクシャルという言葉はしっくりくる、と思うようになった。

自分にぴったりなラベルを手にした私が、今やりたいこと。それは、これまで「私なんかが、こんなことを望むのはお門違いだ」と思って、諦めたり、捨てたりしてきたことを拾い集める旅だ。

アラサーにもなって、手遅れだという人もいるかもしれない。

そんな人には、先程触れたドラマの主人公が最後に言っていた台詞を。

私の人生に、何か言っていいのは、私だけ。


音珈琲(おとこーひー)の『日々、ひろいごと』。

これは私自身を取り戻す旅。